もうひとりのきみと過ごした1ヶ月 第1章<01>

花純は、暗闇を裸足で走っていた。 パリの石畳は素足にひどく冷たく、その起伏に足をとられ何度も転びそうになった。 いまのところ追っ手はないようだ。 人がいないわけではない。だが、助けを求められそうな人物はいなかった。 集合住宅が建ち並び、粗末な身なりの人々があちこちでたむろしている。それはここが治安の悪い地区であることを如実に物語っていた。荒い呼吸で弾けそうな心臓をかかえ、花純は必死で走った。 仕事のあと、彼女はいつも通りマネージャーと別れ、スタジオの地下にある駐車場に向かった。 しかし、愛車のキィが見つからず、バッグを探っていたところを―――何者かに後ろから殴られたのだ。 気がついたのは、見知らぬ場所の簡素なベッドの上だった。 周りを見回すと、ベッドと小さな椅子以外、家具はない。持っていたはずのバッグもなく、靴も履いていなかった。とっさに身体を確かめた。乱暴された気配はない。痛むのは殴られた頭だけで縛られてもいない。そのことが少しだけ花純を安心させた。 (落ち着いて。撮影だと思えばいいのよ) 心の中で自分に言い聞かせる。緊張をとくためにいつもしているように、深く息を吸い込み―――細く長く息を吐き出すと、少しだけ自分を取り戻した。 誘拐。レイプ。人身売買―――。 思いつくのは不穏な単語ばかりだ。 いずれにせよ、この状況で大人しくベッドに寝そべっていていいはずがない。 ドアの外で人の気配がした。背筋に冷たい汗が流れる。 とっさに、そこにあった椅子をつかみ、ドアの陰に隠れた。 入ってきた男を、渾身の力をこめて椅子で殴る。 相手がどうなったかも確かめぬまま、部屋を飛び出した。 部屋の外には人がいなかった。 小部屋のドアが連なる倉庫のような場所を飛び出し、いまどこにいるのか、 どの方角を向いているのかもわからずに、明かりのある方向へ闇雲に走った。 こんなことになるなら、彼の忠告を大人しくきいておけばよかった。花純は唇を噛んだ。 (自分の置かれている立場を自覚しろ) (護衛とまでは言わないが、せめて運転手付きの車に変えてほしい) そう懇願する彼を、一笑に付した。 (運転するのが好きだから) (有名になっても、ささやかな自由くらいは手放したくない) ―――なんて馬鹿だったのだろう。 後悔しても遅い。こみ上げる涙をこらえようとまばたきをする。 思えば―――。 車のキィをなくしたのはきっと“あのこと”が原因だ。 この数日というもの、撮影中以外は魂が抜けたようになって周りを心配させていた。 実際、心の中では、どうしてあんなことをしてしまったのかと、自責の念が嵐のように吹き荒れ、毎晩眠ることもできず、花純を苦しめていた。 (無事に帰ることができたら、今度こそ、彼にすべてを話そう―――) (―――それから、車も処分して、運転手をつけると) 花純は走りながら、自分の愚かさを心から呪った。路地をかけ抜け、片側二車線ある大通りに出た。向こうから走ってくる車が見える。 ―――助かった。 そう思ってかけよろうとした瞬間、後ろから曲がってきた車のヘッドライトが目を射った。 (貴司―――) つぶやきが、空に消えた。 ***** 意識を取り戻した彼女の目に最初に飛び込んだのは―――白衣を着た白金髪の青年だった。 ベッドの傍らに立ち、ブルーグレイの瞳で自分を心配そうに見ている。 シャルルは花純が目を開けたことに気づいて、小さく息を吐いた。 「気がついたか。もう心配いらない。ここは病院だ」 「花純!よかった……」 隣で涙ぐみながら自分の顔をのぞき込んだのは、大きな瞳が印象的な茶色い髪の女性。 「わたし……いったい」 花純は手を動かして自分の頭に触れ、巻かれた包帯に気づいた。 鼻にはチューブで酸素を送り込まれ、指にも器具がはめられている。 そして、なにより。 ―――記憶がまったくない。 花純は自分の頬にふれ、額にふれた。 自分の顔も思い出せない。もちろん、このふたりが誰かもわからない。 「どうした?」 「花純ちゃん?私よ、マリナよ」 彼女の動揺に真っ先に反応したのは、シャルルだった。 起き上がろうとする花純を片手で制し、隣のマリナに黙っているよう視線を送り、人差し指を唇にあてる。 「ああ……起きあがらなくていい。……自分の名前をいってみて」 「なまえ……」 絶句した彼女に、シャルルとマリナは顔を見合わせた。 「……わからない」

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