もうひとりのきみと過ごした1ヶ月 第2章<09>

そのクラブは、えも言われぬ臭いがした。 安酒と安い香水、尿と吐瀉物の混じったすえた臭い。 カークは部下を3人1チームにして、エルナンドから聞きだしたたまり場を手分けして捜索させた。もし対象を見つけた場合は、手出しせずに自分に知らせるよういいそえて。 そしてもっとも当たりになりそうなここに、エリックと強面のガストンの3人でやってきた。 優男のエリックとは違い、ガストンは岩で削られてできたみたいな巨体だが、驚くほど敏捷に動ける。歳はカークよりはるか上で、頼れる部下のひとりだった。 フランスでは売春は禁じられていないが買春は違法になっている。近年制定されたこの法案は、売春婦を性風俗から保護し別の仕事を与えて守るためのものだった。だがいざ試行してみれば、金払いのいい上顧客は姿を消し、代わりに違法であることを厭わない乱暴で無茶を要求する客ばかりになっている。性的暴力や人身売買は無くならず、むしろ地下化して危険度を増していた。 カークはいつもは三つ編みにしている長い髪を編まずに背中に垂らしていた。夜も更けたせいで伸び始めたヒゲと長時間勤務の疲れとが相まって、粗野な魅力を増している。 しかしその眼光―――周りを射抜くような視線は、酒と薬でハイになっている周囲からは一線を画していた。 エリックが、そんなカークにこっそり耳打ちした。 「そんな目で睨んでると、刑事だとバレますよ。だいたいこんな場所にむさ苦しい男3人で来るのが間違ってる」 「仕方ないだろ。エルナンドが数人でいけっていうんだから」 粗末なスツールには、なんなのか知りたくもないシミがいくつもついている。腰かけたくはなかったのでかろうじてよりかかり、カークはウイスキーを全員分注文した。 周りはヒスパニックが多い―――東欧系の鷲鼻、黒い髪。濃いヒゲ。だが白人も幾人かいた。その合間を縫って外国人の娼婦が悩ましくしなをつくる。カークたちは溶け込むようにグラスをかたむけ、しかし飲まずに周囲に目を走らせた。 花純がさらわれた駐車場の監視カメラに映っていた男―――ヴァロン・ムラドへの令状は出ていない。 監視カメラに映っているというだけでは不十分というのが検事の言い分だった。さらっている現場が映っていないのでは仕方がない。 慎重派で弱腰の検事に苦い思いだったが、言い分はわかる。もっと決定的な証拠を掴まなければならない。花純が思い出すか―――あるいは任意同行して自白をとるか。 どちらも道は険しそうだ。 「ハイ、お兄さんたち、楽しんでる?」 早速女が寄ってくる。長い爪に赤いマニキュアを施した手で、カークの肩をするりと撫でた。 かなり若い。違法に入国した移民の娘だ。顔立ちは美しいが、搾取されているやつれを濃い化粧で隠している。 カークはにやりと笑ってみせ、女の腰に手を回した。 「ちょうど話し相手が欲しかったんだ。どこか親密になれるところはある?」 「あなたみたいな素敵なひと、大歓迎よ。ついてきて」 女はカークの右手をとり、自分のヒップを撫でさせながら、奥へと案内した。 後ろ姿を見送り、アレックとガストンは小声で言った。 「どうよ、あの豹変ぶり。仕事ならあそこまでできるんだな」 「普段できないのが惜しいですねえ」 「できてたら、今頃あっちこっちに彼女をつくってるよ。天性のたらしってやつ」 「顔もいいし性格もいいのに女性が苦手だなんて。まったくもったいない」 首を振り振り、グラスを傾ける。別の女が声をかけてきて、二人は瞬時に表情を引き締めた。 ボスにばかり仕事をさせておくわけにはいかなかった。 それが目的と一目でわかるベッドだけが置いてある小部屋の壁に女をおしつけ、カークはみだらに唇を頬を寄せた。女がなまじ演技でもない熱いため息を漏らす。華奢な身体をなでおろし、ヒップから引き締まった太ももまでをゆっくりとたどった。 「いつからこんなことをしてる?まだ若いだろ?」 「あん、何?年増好みなの?」 興が削がれて身体を離し、女は渋い顔で髪をかきあげた。 「23よ。お望みなら口でだっていくらでもイカせられるわよ」 5歳はサバを読んでいるなとカークは思いつつ、化粧に隠れた純朴そうな瞳にかけてみることにした。 「この男を知っているか?」 取り出した写真を見て、女は表情を消した。カークは財布から紙幣を取り出し、押し付けた。 「知ってるんだな。ここにはよく来る?」 「し、知らない!あたしは何も―――」 「君から聞いたことは絶対にバレない。ここに来るかどうかだけでいい。教えてくれ」 「―――よく、よく来るわ。ヤバい奴よ。銃もナイフもなんでもあり。何度か客を半殺しの目に合わせたのを見たわ。半殺しっていうか……死んだ、かも」 カークは懐からカードを取り出し、さらに紙幣を何枚か引き抜いて渡した。手の中の紙幣を見て女が目を丸くする。 「こんなに……」 「いいか、よく聞いて。カードの住所はシェルターだ。夜が明けて店が終わったら、化粧を落として目立たない格好になって、タクシーでそこまで行って事情を話せ。あとはなんとかしてくれる。このカードを見せればいい。きみを守ってくれるだろう」 「事情って」 「みればわかるよ、無理やりやらされてるって。騙されて連れてこられたのか?どこの出身?」 「ルーマニア……」 女は唇を震わせ、こらえきれずにぼろぼろ涙をこぼした。 「なんでこんなことするの?人助けが趣味?」 「実はそうなんだ。というかそれももちろんあるけど……きみが今度はこいつにオレのことを告げ口したりしないように用心してるってところかな」 「そんなことしないよ!関わるほどバカじゃない。……あいつは殺し屋よ。ボスはバラム・レジャっていう。真っ当なビジネスマンの振りをしてるけど、裏で何でもやってる。部下がいっぱいいて、女をさらったり、身障者のロム―――ジプシーをさらってきて物乞いさせて稼ぎをはねたり。今のメインはクスリよ。ロシアンマフィアよりタチの悪い最低な奴ら。でも誰も手出しできないの。パリ市警の大物とつながってるから」 「なんだって?」 「誰かは知らないわ。でもそうとしか考えられない。やりたい放題のくせに、全くバレてないから」 険しい顔になったカークに、女は首を傾げた。 「あなた、もしかしておまわりさん?」 「……どうかな。お互いのために、秘密にしておくよ」 女と絡んでいたエリックとガストンに引き上げるよう目で合図をし、カークは店を出た。 携帯を取り出し、散っている部下に探索を中止してこのクラブを交代で見張るよう指示を出す。 警察内部に協力者がいるという。確かに、そこまでの組織でありながら警察のファイルにトップの情報が一切ないのは不自然すぎる。 車内で部下のふたりに説明しながら、カークの顔は引き締まっていった。

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