もうひとりのきみと過ごした1ヶ月 第3章<01>

目覚めは唐突に訪れた。 花純はベッドにおきあがり、冷や汗をかいている全身を震わせて両手で自分を抱きしめた。 何か、夢を見ていた。思い出せないが―――よくない夢を。 ベッドから抜け出し、顔を洗う。窓の外は薄暗く、まもなく夜があけることを示している。 急に外に出たくなった。考えてみれば、病院で目覚めてからというもの、車でこの家に来たきりで外の空気を吸っていないのだ。 バッグの中で見つけた手帳には、事故に遭う当日まで、びっしりとトレーニングの予定と記録があった。ここ数日は寝たきりで、体が鈍っているのを感じる。 昨日探索しかけた広大なクロゼットには、下着類、ハンガーにトップス、ボトムス、ワンピース、ドレス、靴にバッグ、ジュエリー……色別にわかりやすく収納されていた。 まるで小さなデパートのようだ。 「よりどりみどりね。まったく信じられない衣装持ちだわ。いくつ体があるっていうのかしら」 だが、見ていて楽しい。どれも好みだし―――自分のものなのだから当たり前なのだろうが―――洋服が好きなのは昔から変わっていない。 楽しく眺めていた花純の手がふと止まった。 ビデオでみた、オスカーを受賞したときに着ていたあのドレスだ。透明なカバーのなかのそれは、映像でみたときよりも実物の方が数倍華やかで、繊細だった。 カバーの上からそっと撫でてみる。上質なサテンはきっとうっとりするほど滑らかなのだろう。感触はわからない。うずく胸の痛みに顔を背けた。 一角に、ワークアウト用のウエアがまとめられていた。 選ぼうとして頭と腕の包帯を思いだす。これでは走るどころか着替えすら無理だ。頭からかぶることができない。しかたなくあきらめ、シンプルな白いシャツとジーンズにカーディガンをはおり、花純は階下に降りていった。 邸内には人気がなかった。 玄関前の大広間を通り、外に出る。肌寒さに一瞬ひるんだが、引き返すのも面倒だった。そのまま歩き出す。 気の向くままにゆったりと歩いていく。薄暗い街はまだ眠っているようだ。通行人も車もいなかった。分かれ道に差し掛かかっては判断を自然に任せてゆくと、やがて広い公園に出た。 植え込みを見ると、褪せた緑に、新緑だったころのそれが重なる。花壇の中には春のころ、花をつけていた様子も。 ここは自分のテリトリーなのだ―――花純は期待を胸に、公園内へ入っていった。 ここにはさすがに早起きの人々がいた。遠くには犬をつれて散歩している老人、連れ合ってジョギングしている若いカップルがみえる。本格的に走り込んでいる壮年の男性が花純のそばを追い抜いていった。 今は紅葉している、マロニエの並木道の向こうにはエッフェル塔が顔を覗かせている。 円形の花壇をすぎると、銅像があった。カラスが咥えているチーズを挑発的に見せつけ、キツネが必死に奪おうとしている。それを見下ろす男性の像。 キツネに勝手に名前をつけていたっけ。そう、名前は―――。 〝ボンジュール、リヨン。今日こそチーズを奪えるといいわね〟 思い出せたことでうれしくなって弾む気持ちをかかえ、居心地の良さそうなベンチを見つけて座る。 自分が出演しているビデオを見たときのように、次々に記憶が蘇ってくる。ここは休憩のベンチ。ストレッチのベンチだ。いつものわたしの。 ほかに見覚えのあるものはないかと眺めていると、鳩が何羽か地面を近づいてきた。 「ごめんね、きょうは何も持ってないの」 きょうは―――自分がさらりと言った言葉に気づく。いつもここで餌をあげていた。パンくずやなにかを。 急に激しい羽音がして、見上げると、街灯の先端に鳩がとまった。 そこは一羽だけがかろうじてとまれるくらいに尖っていて狭い。とまっている鳩を、他の何羽かが威嚇してくる。威嚇に負けた鳩が場所を譲ると、得意そうに場所を入れ替わった。その鳩は強気に他をかわし、しばらくたたずんでいたが、やがてもっと身体の大きくて強そうな鳩に負け、その場を譲った。 一部始終をながめていた花純は思った。 この光景をみたことがある。そして自分の姿に重ねた。役を取り合う女優である自分に。 とても欲しい役があった―――それを奪った。 ……奪った?違う、そうじゃない―――。 思い出したくないことに近づいた証拠に、急に身体中の血が下がる。鈍い頭痛がした。身体がこわばり、呼吸が浅くなる。 何だろう。疲れたのだろうか。女優という仕事に。競うということ。演じるということに。 それとも―――。 「……花純?」 声に驚いて振り向くと、美馬が立っていた。 軽く息をきらし、うっすらと汗をかいている。細い赤のラインが入っただけのシンプルな黒のジャージ姿だったが、逞しい身体のラインが屈んだ動きで見て取れた。 ゆったりとしたウェアを着ているくせに、スタイリッシュでモデルみたいに洗練されている。 「どうした。気分が悪い?」 みとれていると、美馬が眉をひそめて覗き込んだ。涙ぐんでいる自分に気づいて驚く。慌てて指先で目を押さえると、ハンカチを差し出された。 「何でもない」 心配そうに見ていた美馬は、上着を脱いで花純の肩にかけ、隣に座った。 「そんな薄着で出歩いてちゃ風邪をひく。スティーブ―――執事から、君が一人で出かけたと教えられてね。急いで追いかけてきた。迷子になってるんじゃないかと慌てたよ」 「ご、ごめんなさい。ちょっと散歩したかったの」 「ほら、先に上着を着て。袖を通して前を閉めて」 「子供じゃないんだから指図しないで」 むっとしながらも、言われた通りにする。それはずいぶん細身に見えたのに大きく、指先しか出なかった。 美馬の温もりに包まれる。まるで守られているみたいに。 冷えていた身体がほんの少し熱くなった。 「何か思い出すかと思って、ぶらぶらしてみたの。あちこち見覚えがあって、みたときの感情まで思い出したわ。その場所を通った時どんな気分だったかが、記されているみたいだった。嬉しかったりわくわくしたり―――つらかったり。いろいろ」 「このベンチがきみの拠点だったよ。ここから毎日走ってた」 「うん、それもわかった。この調子であちこち知っているはずの場所にいったり見たりしていたら、いずれ元に戻ると思う」 「そうか」 嬉しそうな花純に、美馬も微笑んだ。内心もどかしい気持ちで。 これでは安全だとわかるまで、日本に連れて帰りたいとは言えない。思い出すことに懸命な花純に。 それが一番の策だとわかっているのに。 「きみは……本当に強い。不安でいっぱいだろうに、泣き言は言わず小さな事でもとにかくできることを見つけて努力する。そういうところを尊敬してる。かなわないって思うよ」 「だって弱音を吐いてたって事態は変わらないし」 「そうだね。なるほど。……その方程式にのっとって考えると、今のオレにできることといえば……」 美馬は空を見上げて腕を組んだ。 「……全力できみを口説くことかな」 「口説く。わたしを。あなたが」 「そう。夫という立場に甘んじるつもりはないよ。昔からライバルは多かったからね。オレのことを忘れているきみを、もういちど振り向かせるつもりで頑張ってみる」 瞳をきらめかせて、花純を見つめる。 「そもそも、妻ともういちどいちからやり直せる体験なんてめったにできるものじゃないだろ?」 呆気にとられた。別の誰かのことを言っているのを聞いてるような気持ちがした。 口説くって。わたしはとっくに。病室に入ってきたあなたを見た時から。 花純は美馬から視線をそらし、口をつぐんだ。 このひとが欲しいのは、あの、ビデオのなかの華やかなひと。彼女とわたしは違う。同じだけど―――同じはずだけど。このひとは知らない隔たりがあるのだ。 深くて遠い川みたいに。そしてパンドラの匣のように開けてはいけないこと。 あることはわたしにはわかってる。なぜなら彼を見ると苦しくなるから。ひれ伏して謝りたくなるから。突き上げるような罪悪感でいっぱいになるから。 でも―――それはいったい何? 花純はたちあがり、数歩前まで歩いた。逃げるように。 「花純?」 「ここ、ランニングコースなんでしょ。競争しましょ。ハンデはもらうから」 言うなり駆け出した。 「花純っ!」 走って行く花純に、美馬は一瞬意表をつかれたものの、次の瞬間、弾かれるように後を追った。 スティーブに起こされ、急いで護衛のふたりと手分けして花純を探した。 この時間なら公園ではないかと勘だけをたよりに走り、いつものベンチに花純の後ろ姿を見つけた時には膝がくだけそうなほど安堵した。 涙ぐんでいた彼女に浮かんでいた素の表情が、声をかけたとたん、ほんの一瞬で頑なな仮面の向こうに隠れてしまったのはやりきれなかったが、我慢強く心を開いてもらうつもりだった。 花純にとっては、ただの知らない男なのだから。 しかし同時に、花純と話をしているうち、だんだん大きくなっていくある気配も感じていた。 人に見られることには慣れている。だが、今、花純が自分から離れて駆け出したとたん突き刺さるように大きくなったこれは。 悪意。いや違う。 ―――殺気、だった。 「きゃ……っ」 美馬はすぐさま追いつき、驚いて振り向く花純の肩を掴み、さらうように抱き上げた。そのまま速度を緩めずに走る。 花純を守れるようにと願いながら、美馬は公園の北側の出口を目指した。そこに護衛が車をまわしているはずだ。角を曲がり、かき消えた気配にほっとする。 目指す車はすぐに見つかった。カジュアルなジャケット姿の男が降り立ち、ドアを開けたのを見て、美馬はようやく足をゆるめた。 広大な芝生広場を突っ切って行けば近道だったが、美馬はあえて落ち葉の広がる木立を進んだ。華奢な身体を思う存分抱けることに小さな喜びをかみしめていると、腕のなかの花純が身体を起こし、足をばたつかせた。 「ちょっと!競争だって言ったでしょ。降ろしてよ」 「嫌だね。暴れると、落ちるよ」 高く手を上げて花純の身体を捧げるようにしてやると、花純が悲鳴をあげた。 「わ、わかったから!やめてっ!!」 「怪我人は走ったりしちゃだめだ」 「もう、過保護にもほどがあるわよ。こんな怪我くらいで走れなくなったりしないわ」 「それはどうかな。帰ったらシャルルに診察してもらおう。もし傷が開いていたら、そのときは……」 睨みをきかせて軽口をたたきながら、花純を助手席にそっと降ろした。自分は乗らずに一旦ドアを閉める。花純に話を聞かせたくない。 「公園の南側を急いでチェックしてくれ。不審な人物や車がいないかどうか。車があればナンバーを控えてきてほしい」 「わかりました。ここでお待ちになりますか?」 「いや、先に花純を連れて帰りたい。あとで別の車を迎えによこそう」 ふたりが走って行くのを横目に、美馬は運転席に座り車を出した。

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