もうひとりのきみと過ごした1ヶ月 第3章<02>

男は車のなかから、スモークを張った窓越しに、花純の背中に狙いを定めていた。 狩猟は貴族のたしなみだ。腕前には自信があった。引き金を引くだけで、仕留めることができる。秋に撃ったばかりの鹿みたいにたやすく。 眠れないまま彼は車で街をさまよっていた。路上に停車してぼんやりとしていたところに、薄闇の中花純が歩いてきたのだ。知らず知らずのうちに、彼女の家の近くまできていたのだと気づいたときにはもう、静かに後をつけていた。 彼女が交通事故に遭ったことは新聞で知った。頭と腕に包帯を巻いているが、普通に歩いているところを見ると大した怪我ではなさそうだ。 公園には柵がなく、そのまま中央を横断する道へ車を乗り入れることができた。だがそうはせずに十分に距離をとり、花純がベンチに落ち着いた背中を遠くから見る場所で停車した。 まだ早朝ということもあって、人は少ない。それでも用心して窓は下げずにおいた。 引き金をひくのは最終手段なのだと自分を戒めるためにも。 完全に背中をスコープ内にとらえ、彼女の命を手中に収めている感覚に酔いながら、じっと観察していると、やがて―――美馬が現れた。 どす黒い気持ちが巻き起こり、頭に血が上った。気づけば静かに窓を下げていた。 美馬、おまえはいいな。愛する女性が生きていまもそばにいて。 花純が立ち上がり、駆け出したときには殺意が燃え上がった。引き金をあとコンマ数秒のところで引きそうになり、美馬の背中に完全に隠れたときには舌打ちし―――そして身体を起こして見た。 バックミラーに映った自分の顔を。 ―――なんてザマだ。ジェフリー。 もう何日もまともな食事を取っていない。まともなベッドでぐっすりと寝たのはいつだったか思い出せない。 栄養と睡眠の不足した顔はやつれ、目は充血して青白く、幽鬼のような形相をしていた。 ライフルを助手席のケースへ戻すと、ジェフは逃げるように車を出した。 愛するマリオンを亡くし、悲嘆にくれていた彼のもとに男が現れた。彼はマリオンの親しい友人だと言った。見るからに同郷のようだったし、疑いもしなかった。話しかけてきたバーで、彼はいかにも誠実そうにお悔やみを述べ、スコッチをボトルで注文して酌み交わすと、マリオンとの親しいエピソードをいくつも披露した。そして。 聞いた話は衝撃だった。 花純は、親友だったマリオンが手に入れた大きな役を奪った。そのために彼女はドラッグに溺れ自殺した。そのドラッグは花純によって都合されたものなのだという。 彼は証拠に、マリオンからのメールを見せた。そこにはマリオンの無念、後悔と花純を恨む気持ちがはっきりと書かれていた。 業界内に広まっていた噂―――マリオンの自殺の理由をあれこれ憶測していた連中が、面白半分に花純とマリオンのいざこざについて言っていたのはむろんジェフも知っていた。 なんといっても、実際にマリオンの降りた役を代わりに演じたのは花純なのだ。 だが、ドラッグのことなど全く知らない。 ジェフはマリオンの死に目に立ち会えなかった。仕事で英国に戻っていた二ヶ月の間、彼女との連絡は携帯での電話とメールのみ。電話はお互い多忙の身ですれ違うことが多かった。 由緒正しいエセルバルト家にはどこの馬の骨ともわからない女はふさわしくないという理由で、ジェフリーの家は彼女を認めていなかったのだ。もし家に彼女から何かしらの連絡があったとしても、もみ消された可能性が高い。 マリオンの死後、失意のまま仕事をこなす日々が続いた。あの男に会うまでは。 マリオンに何があったのか。それを知りたくて花純と会いたいという男に手を貸した。 花純と揉めた末に、友情が決裂したということはマリオン本人から直接聞いていた。あのとき彼女は花純を恨むというよりは、ただ、悲しんでいたように思える。 姉妹のように仲の良かったふたりなのに―――なぜこんなことにと心を痛めていたときの、突然の訃報だった。 知りたいのは真実だ。あの男を交えず、花純から直接話を聞くべきなんじゃないか? 人知れず後をつけ、後ろからライフルで狙うなんて完全にどうかしている。 朦朧とした頭では考えがまとまらない。ジェフは霞む目をこすった。 眠らなくては。そして、まともな食事とシャワー。 話はそれからだ。 震える手でハンドルを握りながら、ジェフはもう一度ミラーを見た。落ちくぼんだ目が見返してくる。いつから眠っていないのだろう。記憶をたどって背筋が凍った。 人はこんなにも眠らずにいられるものなのだろうか。 ジェフは左手で顔をこすり、助手席に転がっているボトルを見た。 水替わりに飲んでいたスコッチのボトルはもう空だった。 このボトルはあの男からもらったものだ。お近づきのしるしにと、バーで初めて会った時に差し出され、そのまま持ち歩いていた。 あのとき彼は何と言った?マリオンの死の真相を話す前。そう……まずはじめに。さりげなく。 ―――マリオンから何か預かったものはないか? 今まで憎しみに囚われていたジェフの目に、何かが宿った。疑念という種が。 あの男の言ったことは本当なのか? ***** 美馬と花純が邸内に戻ると、玄関前の大広間には旅装姿の真澄がいた。そして執事と一緒に若い男性も。 背を向けていた彼は真澄にうなずき、振り返ってまっすぐに花純を見た。 癖のある短い黒髪。わずかに鼻筋には歪みがあるものの、生き生きとした表情は魅力的と言っていいだろう。すらりと引き締まった身体は、仕立てはいいがわざと着古したように見せた黒い革のブルゾンと色あせたジーンズに包まれている。 彼は微笑んで、両手を広げた。 「やあ、花純。……オレがわかる?」 一瞬あっけにとられたあと、喜びに顔を輝かせ、花純は彼に飛びついた。 「―――凱!」 「よかった、わかったんだ。久しぶり」 「わかるわ……ちゃんとわかる。ママ以外にもわかる人がいた―――嬉しいわ。会いたかった」 きつく抱き合った身体を離し、凱は両手で花純の顔をはさんで覗き込んだ。包帯を巻いた頭をそっと撫でる。 「大変な目にあったね。こんな朝早くからどこに行ってたんだ?まだ寝てると思ったら、いないって聞いてびっくりしたよ」 「散歩してたの。美馬にはもう怒られたんだから、言わないで」 仲のいい兄妹か、あるいは恋人同士といってもいいくらいの親密なやりとりに、真澄が遠慮がちに口を挟んだ。 「あのね、花純。盛り上がってるところ申し訳ないんだけど、ゆうべの仕事のトラブルでどうしてもNYに帰らなくちゃいけなくなったの。凱は交代するために来てくれたのよ。凱のことがわかるんなら心配いらないわね。よかった」 「そうなの……。こんなに早くから大変ね。空港まで一緒にいくわ」 「そんなのはいいのよ。そっちこそ大変なときなのについていてあげられなくてごめんね」 「ううん。あたしは大丈夫。来てくれてありがと」 真澄と抱き合った花純のうしろで、凱が声をかける。 「美馬、花純、朝食はまだ?みんなで一緒に食べようよ。つもる話もしたいしさ」 「うん!」 顔を輝かせた花純に、美馬は首を振った。 「オレはシャルルに呼ばれているから、ふたりで食べるといい。またあとで話そう。真澄さん、お送りします」 「本当にいいのよ、もうタクシーは呼んであるから。あなたは花純についていて。お願いね。……花純、ちょっと」 車を呼ぼうとした美馬を遮り、真澄は娘の手をひっぱって脇に寄せ、そっとささやいた。 「貴司くんの前であんまりいちゃいちゃするんじゃないわよ。わかった?」 「してないし!」 憤慨しつつ、荷物を運ぶメイドと一緒に出て行く真澄を見送り、花純は凱を振り返った。 癖のある黒髪に楽しそうな輝く瞳。気さくな雰囲気を全身から発し、いつも微笑みをたたえているような唇がにこっと笑った。 「花純、行こ」 背中に手を回され、花純は無意識に美馬の姿を探す。 彼は完全に背を向けてしまっていて、その表情はわからなかった。

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