届かなかった手紙<09>

冷蔵庫には、アボガドと新鮮なトマト、それにシェーヴルがあった。 そっとガーゼをはがし、行儀悪く指先で味見してみる。ちょうど食べごろだ。花純は微笑んだ。 時計を見ると行きつけのブーランジェリーがそろそろ開く頃だった。早朝から頑張っている彼は、花純のためならいつも、開店前でも焼きたてのバゲットを快く売ってくれる。 耳を澄ますとクラストのなかでピシピシと音楽を奏でるそれを思って、身悶えた。山羊のチーズ。アボガドとトマトとブラックペッパー。そして美馬からもらったとっておきのシャンパン。 完璧な朝食。 花純はおそるおそる、自分の心のなかをさぐってみた。飲まない理由が思いつかない。それは自分で自分に許可をだしているということだ。 あの美馬のシャンパンに―――自分はふさわしい、と。 彼はまだシャワーを浴びているだろう。外出すると断りを入れるため、手前のドレッシングルームのドアをノックした。 「あのね、すぐそこの角まで……」 奥のシャワー室にいるだろうと思っていたから、すぐさまドアが開けられたのには驚いた。美馬がウエストにタオルを巻いただけの姿だったことにはもっと。 「どうしたの?」 「あ、あの……」 目を反らして後ろを向くのよ。頭のどこかからかすかな指示が飛んだ。淑女ならそうするはず。でも実際は―――美馬の胸の、しなやかな筋肉に目が釘付けになっていた。どうにかしようと思考の停止した脳みそを叱咤する。 不自然な沈黙が落ちた。 彼の引き締まった胸元から、水滴がついと流れるのを花純は呆然と見た。 名だたる俳優と仕事をしてきた。濃厚なラブシーンもあった。 でも彼らはカメラが回っていないときは気のいいお兄さんとでもいう存在で。 花純は唾をのみこもうとしたができなかった。口の中がカラカラになっている。 「すぐそこまで……その、バゲットを買いに行こうかと」 どこかの愚かな女がこの状況にまったくふさわしくないことを言っている。天高くから見下ろしているような心地で花純は自分に呆れ―――ふと、違和感に気付いた。 眉をひそめて手を伸ばし、美馬の二の腕に触れると、彼の全身がびくりと波打った。 ものすごく冷え切ってる。 よく見ると美馬の唇は紫色になっていた。 「どうして……」 冷たい手に掴まれ、花純は部屋の中に引き込まれた。ひょいと抱えられ、台の上に乗せられる。 ショートパンツ姿の花純が大理石の冷たさを感じないように、脱いで畳まれていた美馬の麻のジャケットの上に。 見おろす高さになった花純を、美馬は両腕で囲ってうなだれた。頭を拭いていたタオルに隠れて表情が全く見えない。代わりにすらりと伸びた両腕と、むき出しになった肩甲骨が浮き上がっている。 「ずっと君に謝りたいと思ってた。―――あの島でのこと」 「え?」 「あのとき……きみがあのビデオを見たとき。どれほど傷つけたんだろうと思った。本当にごめん。もうしないって言っただろう?だからオレは待つよ。きみが受け入れてくれるまで―――」 「……」 さっぱり話の見えない花純だったが、「もうしない」という単語に引っかかった。 「でも、きみがあの手紙の送り主だってわかって、たまらないんだ。我慢できない。だから頭を冷やそうと……」 たしかに昨日言った。自分が。美馬に。同じ言葉を。 つまり―――? ビデオっていうのは、わたしと美馬が別れる原因になった、大昔見せられた美馬と彼女の……ビデオのこと……よね。 そのせいでわたしが「できなくなった」と思っている、ってこと、かしら。 花純の頭のなかが整理され、渦巻いていたクエスチョンマークがようやく落ち着いた。 「ち、ちがうわよ!そうじゃなくて……あなたのせいじゃなくて……その……」 目を伏せている精悍な頬を、花純は両手で包んだ。たじろぐほどに冷たい。 どうしてこんなになるまで。 少しでも温めてあげたくて、手を伸ばして横の棚から新しいバスタオルをとりだし、広げて美馬の背中にかけた。 上を向いた美馬の顔を、そっと引き寄せる。 「一昨日の夜、あなたと初めて過ごしてわかったの。自分でもわかってなかったんだけど、その……わたしが今まで男性を受け入れられなかったのはね、美馬、あなたじゃなきゃ嫌だったからなんだって」 美馬の目が濡れた前髪越しに見開かれた。 「日本に帰るため―――というかあなたにまた会うためには、ちゃんとした恋愛をしなきゃダメって自分に言い聞かせてたの。でもあなたじゃなくちゃ嫌で……矛盾してるでしょ。だから誰ともベッドまで辿り着けなかったの。だから……」 タオルの両端を引っ張りくるんでやる。近づいた身体は震えるほどに冷たい。 「あなたのせいじゃない」 美馬が血の気の引いた顔で苦笑した。 「つきつめればやっぱりオレのせいだと思う。でも、それなら……遠慮しなくてもいいかな?」 「えっと……とりあえず、わたしは外に出ているから、もういちど熱いシャワーを浴びなおしてきたら?」 「いや」 台から降りようとした花純の肩に、額を乗せて押しとどめる。 「……きみに温めてもらうことにする」 ***** くちづけは、壁の花に甘んじていた女性をワルツに誘い出すような、いたわりと優しさ、自信のなかにのぞくわずかなためらいがあった。花純はその巧みなリードに身を任せ、うっとりと目を閉じた。 花純のキスは、とても情熱的だ。 初めてベッドをともにしたときから感じていた。なんて官能的で―――火花が散ってるみたいなキスをするんだろうと。 そしてこうも思った。こんなキスのあと続きを拒まれて、やめられる男が何人いるだろうか。花純の男を見る目はきっと相当磨かれているに違いない。 それとも、自分が相手だからこうなのか。 美馬は考えを振り払うように、花純のヒップを両手で持ち上げた。バランスを崩した彼女が慌てて首にしがみついてくると、軽々と抱き上げお互いの唇をむさぼりながら寝室に向かった。 花純は、冷え切った美馬の体にそろそろと両手を這わせ、触れているうちに火照ってくるなめらかな筋肉の感触を楽しんだ。どう振る舞えばいいのかわからないながらも、美馬の息が乱れていくのを感じ、それが彼を興奮させることも知った。 愛の行為は、ゆっくりと甘く、優しく、永遠にも思えるほど続き、そのあいだずっと二人の唇は一度も離れることがなかった。花純は幾度も押し上げられる波にのまれ、気の遠くなるリズムに翻弄されながらも、ただ彼の腕の中で我を忘れた。 愛を交わすことは、深く潜るのに似ている。息が苦しくなって肌が粟立ち、目を開けていられなくなる。ようやく息を継ぎ、美馬の乱れた前髪を指先ですきながら、花純は言った。 「あなたに手紙を出していたのはね、いってみればただの自己満足だったの。たとえるなら―――空に向かって紙飛行機を飛ばしてるみたいな?海に手紙入りの瓶を流したみたいな、そんな感じで」 「メッセージ・イン・ア・ボトル?」 「そうそう。……あなたはケヴィン・コスナーよりずっと素敵だけど」 「きみはロビン・ライト・ペンより若くて可愛らしくて魅力的だ」 花純は目を丸くした。 「まさか、知ってるの?あの映画?」 「きみが出ているってうちの有能な秘書が教えてくれたからね」 「……ぜひとも彼女に会わないといけないみたいね。信じられない、ほんの端役なのに。タイム誌で最もセクシーな男に選ばれた色男さんが、ニコラス・スパークスの恋愛映画を観ているなんて。……ゴシップ誌にこっそりいいつけてやろうかしら。彼にはストーカーの気があるようです=v 美馬は吹き出して肩を揺らした。 「ひどい言われようだ。でも長年オレを支えてくれた大事な女性には、何を言われても文句は言えないな」 「支えてた?……ほんとに?」 美馬は再び身体を起こし、行動で答えを示した。 人知れず処分されるはずだった手紙は、長い時間を経てようやく、彼のもとに届いた。―――彼女のすべてとともに。 美馬はただ感謝の気持ちと、苦しくなるほどの愛おしさで、官能に曇ってゆく花純の瞳に見とれた。 まだ朝になったばかりだというのに、今日はもう、ベッドからは出られそうになかった。 Fin. ***** そんなわけで、またまた、もうひとつのきみと過ごした一ヶ月に続きます。 いやー長かったわ!完結まで何年?ろろ、ろくねん?いや、年が明けたからななねん!? あのときおなかにいたはなちゃんは、今年で小学生ですよ! そもそも、これを書き出したきっかけは、 ・手紙の主が花純ちゃんだと双方がきっちり認識してない。 ・花純ちゃんのところにまだ手紙があったことを美馬さまは知らない。 と思ったこと。 それから一番書きたかったのは、 ・離れている間もお互いのことを想いあっていたこと。 よくあるでしょう?離れていたけど再会して焼け木杭に火がついて……みたいな。 10年といえば、お互いいろいろありますよね。 恋愛ばっかりにうつつをぬかしているわけにもいかないし。 仕事もして生活があって……でもやっぱり心のどこかに相手が住んでいた。 そんなリアリティのある関係を描いてみたかったのです。 そしてついでに ・ハワイのビデオのことを美馬さまにきちんと謝ってほしかった。 というのがあります。 当時でも、これはひどい、と思ったんですね。 美馬さま大好きの花純ちゃん(しかもまだバージン)に、 美馬さまと元カノのコトの最中のビデオを見せるなんて。 トラウマになっても全然おかしくないですよね。 しかもそのあとの美馬さまのひとことが「さよなら」……。 はああ〜!?何言ってんの!? その前にとりいそぎあやまらんかい!と思わず叫んじゃいましたよ。当時。 まあ、美馬さまが謝るのは少々おかしいんですが。 そもそもひとみ先生が一人称で書かれているための苦肉の策なんでしょうけれども。 美馬さまが見せたわけじゃないしねー。 理性ではちゃんとわかってますよ、ええ。 でも謝ってよね!! さえこの脳内では、手紙の主が花純ちゃんだと知った美馬さまは 「冷水シャワー浴びて頭冷やしてくる!」とかいいだし、 あ、そうなんだ、反省してるんだ……と許してあげた次第です。(なんのことやら) とびとびに、思い出したように更新してきて、 話もお忘れのことでしょうし、 あのころ読んでくださっていた方はもういらっしゃらないでしょうが 何かの拍子にふと思い出して、数年後にでもきていただけて、 あらあら、完結しているわ。とお読みいただけたなら嬉しいな、と思います。 おつきあいありがとうございました。 今度は本編でお会いいたしましょう。 2018.1.21.Sun. さえこ

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