自白剤には甘いカクテルを<後編>

パーティの時にはケータリングを呼ぶことも多いキッチンは、10人は余裕で立てるほどに通路も作業台も全てが広い。アイランド型の作業台とシンクの向かいに置かれた背の高いスツールに腰をおろした花純は、グラスを傾けながら包丁を握る美馬の手元を見つめていた。 迷いのない、こなれた手だ。 いくつもの計算された間接照明が巧みにあたって浮かぶ、黒いソムリエエプロンを引き締まった腰に巻いた美馬の姿は、優雅で洗練され、舞台のように目に楽しい。 花純は女優という職業柄、見目麗しい人間は山ほど見てきたが、彼はそのどれとも違った。 役者は皆、自己顕示欲に溢れ、目を引くオーラを自ら意図的に計算して放っている。それに比べると、美馬は自然に人目を引くのだ。生まれ持った品の良さと、自信に満ちて落ち着いたその態度が。 鍋に湯を沸かしている間に、バジルを取り出し洗ってスピナーにかける。タコに塩を振り、パスタを測り、沸騰した湯に入れてタイマーをセットする。 フライパンを取り出してオリーブ油と刻んだアンチョビとガーリックを炒め、タコを加え―――きっかりパスタが茹で上がると同時に、料理が完成した。 あっという間に目の前に置かれた”タコとアンチョビのパスタ、バジル添え”を見ながら、花純は覚えず唸った。 「冷めないうちにどうぞ」 「いただきます」 エプロンを外して隣に座った美馬と、一緒に手を合わせてフォークをとる。 パスタは少なめ、代わりにタコとバジルがたっぷりとのっていた。花純と美馬のものとでは、分量まできちんと変えてある。 ひとくち食べて、アンチョビとタコのバランスにため息をついた。 塩加減も茹で具合も、なにもかもが完璧すぎる。 「あなたってほんとに、何でもできるのね」 「茹でて切って炒めただけだよ。誰でもできる」 そうはいっても、あの手際のよさはどうなのよ、と内心つぶやきながら、花純はタコを噛みしめる。 「すごく美味しい。誰かに教わったの?」 「まだ選手だったころチームの料理を担当してくれていた女性にね。オレが不調で参っていた時に、気分転換に別のことに集中してみたらって、いくつか料理を教わったんだ。スタッフが気遣ってくれるのが申し訳なくてね。掃除も自分でしたよ。試合以外は一人になる時間をたくさんもてるようにして」 花純はひやりとした。 まだ美馬がプロテニスの現役選手だったころのことだ。 その年は、格下の選手にことごとく敗れた。 サーブが決まらず、ぎりぎりのポイントまで競りながら、決め球をネットにかけたり、コースを読み間違えて相手のボールがインしたりと痛恨のミスを繰り返す。八百長ではないかとマスコミに叩かれるほど美馬が辛かったであろう時期。 花純はパリにいたが、世界ランキング上位に食い込む初の日本人として、またその容姿や生い立ちからも美馬は大変な人気で、フランスでも報道されており、ずっと気にかけていた。 手紙も送った。―――無記名ではあったものの。 美馬にとっては辛い記憶だろう。どう返せばいいか一瞬迷い、あまり触れないように茶化して言った。 「美馬財閥の御曹司が、料理して、掃除機をかけてたの?」 「そう。おかげで自立できた」 フォークでパスタを丸めながら、美馬は肩をすくめてみせる。 「それまでのオレにとっては、料理や掃除をしてくれる人間っていうのは、いるのが当然と思っていたところがあったからね。ひとりでやらなければいけないとなるとこれだけ大変で、時間を取られるんだと知ったら、感謝の気持ちが生まれたし。なによりテニスでいっぱいだった頭を一瞬でも他に向けられたのは良かったと思ってる」 「……そばにいられればよかったのに」 新しいカクテルを飲みながら、ぽつりと言った。 「いてくれただろ。手紙でね」 「そうかもしれないけど。でも……」 頑なに美馬への気持ちをごまかしていたのは誰あろう自分だ。花純はいつも、その月日を思うとため息が出る。それは美馬も同じだと、何度も聞かされているけれど。 無言でパスタを巻きつける花純に、美馬は話題を変えた。 「きみの食べ方は本当にいいね。ひとくちずつ大事に味わって、自分のものにしてる感じがする。一緒に食事をしていて楽しいよ」 「それはどうも。さぞかしいろんなひとに料理してあげたんでしょうね」 「女性には、ないな。ロイヤルテニスクラブの連中がきて、食事をつくった……いや、違うな、つくろうとしたことはあるよ」 「ええっ!?」 持っていたグラスから、カクテルをこぼしそうなほど驚く花純に、美馬は続ける。 「全部で五人、だったかな。全員お腹をすかせてて、皿でも食べそうな勢いでね。何が食べたいか聞くと、イツキが“ハンバーグ”って。ハンバーグってなんだろうって、携帯で検索してたら、一美が“カレーライス”って言ったもんだから……」 「……っ!!」 「どっちもわからなくて、結局言い出したふたりが作ってくれて、カレーライスにハンバーグを乗せて食べたよ。なかなか美味しかった」 「ご、ごめん……っ」 耐えきれずに吹き出した花純は、声を出して笑った。 「そんなにおかしい?どのへんが?」 「全部よ!!ハンバーグなんて、刻んでこねて焼くだけなのに、知らないっていうか食べたことがないことも、携帯でレシピ検索してるとこも、結局ふたつを合体させてるとこも……だいたい、ハンバーグにカレーなんて、小学生じゃないんだから!!」 「ハンバーグはシンプルなミートローフみたいだった」 「御曹司さまってずれてて面白い」 「よかった、笑ってくれて。それで?どうして家に入って待っていなかったの」 緩急をつけながら鋭く切り込むのは敏腕刑事の尋問のようだ。一瞬花純はまごついた。 「え?えっと……」 「オレが帰ってきた時、エレベーターで降りようとしてたよね。そもそも、会社に電話しておいて名乗らなかったのはなぜ?」 たたみかけるように言う美馬に、花純は視線を泳がせた。 「……鍵を忘れたの」 とぼけた花純に、美馬は笑って言った。 「冗談だろ?家には誰もいなかったから、鍵がなければこのフロアまであがって来られないはずだ」 「よくおわかりね、ホームズさん」 「どちらかというとポワロのほうが好みだな」 「じゃあ、灰色の脳細胞であててみて」 2杯目のカクテルを飲み干した花純の目が、とろりとしてくる。 美馬は立ち上がり、キッチンに戻ると、ウオッカにホワイトキュラソーと絞ったライムとクランベリージュースをシェイクし、ふたつに分けた。片方のグラスを滑らせる。口をつけた花純は目を輝かせた。 ライムは彼女のお気に入りだ。 「さあ……急に用事を思い出したか。……女性がいるかもしれないと思ったとか?」 花純の目に衝撃的な何かが走って、美馬は驚いた。自分のグラスを置き、彼女の隣に座る。 「花純?まさか、冗談だろう?オレのことをそんなふうに思ってるの?」 「思ってない。思ってないわ。あなたじゃないの。……昔ね、つきあっていたひとがいたの。サプライズで家に押しかけて―――そしたら、ベッドに彼と、知らない女性がいた。裸で」 美馬は眉根を寄せた。冗談のつもりが、全く余計なことを言った。 「あたしはびっくりして、ドアを閉めて帰ろうとした。彼はジーンズだけ穿いて裸足で追いかけてきて言ったの。あたしのせいだって。あたしがキス以上のことができないのに疲れたって。身体と心は別で、あたしのことは愛してるけど、でも浮気したのはあたしが悪いって」 なんてやつだ。自分の浮気を相手のせいにするとは。美馬は内心怒りをたぎらせたが、黙って聞いた。 様子がおかしかったのは、そのせいだったのか。 「辛いことを思い出させたね。ごめん」 心から謝った美馬に、意外にも花純は目を見開いた。 「え?何が?」 「何がって……その彼が、好きだったんだろう?そのせいで家に入るのをためらっていたわけだし」 「違うわよ。あたしはそれを聞いてすうっと冷めちゃったの。確かに彼の言うことももっともだと思ったわ。ベッドで、いい雰囲気になって、でもやっぱりやめるって言われたら嫌よね。だからきっぱり、お別れしたの。勝手な言い訳をするなって平手で殴ってからね。見る目がなかったの。それだけよ」 「……それは、よくやったね」 「グーでパンチにしなかったのが、かえすがえすも残念だわ」 言いながら、花純は3杯目を飲み、うっとりと言った。 「おいしい。ライムはやっぱりジュースより絞ったほうが好き」 「知ってるよ。だからいつでも切らさずに用意してる」 「そうなの?嬉しい。なんだかいつでも来ていいよって言われてるみたいな気がする」 気がするというか、結婚しているんだが―――美馬のひんやりした怒気は、酔った花純には気づかれなかったようだ。 無意識のつぶやきに、改めて、花純はここを自分の家だと思っていないのだということを思い知らされる。 しかし、それならなぜ花純が帰ろうとしたのかはわからないままだ。 その答えは、飲み干した3杯目のカクテルが白状させてくれた。 空になったグラスを置き、両腕に赤くなった顔をうずめた花純は、もごもごと言った。 「あさって、あなたの誕生日でしょ?だからどうしても会って直接プレゼントを渡したくて、時間をつくって飛行機に乗ったの。急いでたから連絡を忘れてたことに、日本に着いてから気づいた。家におしかけて、さっき言った彼と同じようなシチュエーションだったりしたら―――わたし―――」 ぽろり、と涙がこぼれる。 堰を切ったように涙があふれた顔を、つっぷして隠してしまった花純に、美馬はしばらく硬直していた。 呆然としながら、カウンターの向こうにおいていた自分のグラスを、手を伸ばしてとりあげる。 よく冷えたコスモポリタンは、なるほど花純の言うとおり、絞ったライムがフレッシュで余計な甘みがなく、爽やかでとても美味しかった。 味わいながら、美馬は隣で自分の腕を枕にすやすやと眠る花純を眺める。 つまり、今の話を要約すると。 昔付き合っていた相手が浮気をして、その現場を目撃したときには大してショックは受けなかったものの。今日、同じ事が起きたらどうしようという、自分の勝手な想像に傷ついている。 ということか? 花純は、酔うのも早いが冷めるのも早い。30分もすれば起きるのはわかっている。 ……この愛すべき酔っぱらいをどうしてくれよう。 我が家で、“いつでも歓迎されているみたい”などと言い、笑止千万でおかしな空想で傷つくような妻には、どれだけ自分が愛されているのかという実感が足りないに違いない。 ―――思い知らせてやらなければならない。 美馬は怒気をはらみつつ、花純の寝顔を肴に、ゆっくりカクテルを飲み干すと、立ちあがった。 ぐらりと揺れた花純の首を支え、だきあげる。 寝室の大きな窓からは、青白い月光の輝きだけが降り注いでいた。 歩いて行くうちに、目を覚ました花純が手を伸ばし、甘えるような、すがるようなしぐさで美馬を誘ったことに、感じた違和感は一瞬で消えた。 何度も口づけをむさぼり、お互いに服を脱がせあい、無言のまま、性急な愛撫で高めあう。 一度目の波を乗り越える時、指をからめてきたのは花純のほうだった。 目尻に涙を浮かべて唇をせがんだのも。 全身を震わせた彼女が、いつも以上に感じていたことも。 二ヶ月後、美馬はこの夜を思い出すことになる。 何度も何度も。 なぜ、いくつもの小さな違和感を見過ごしてしまったのか。 奥底に隠されていたものを、追求しなかったのか。 結婚したのは―――オスカーホルダーでもある一流の女優だったのだと―――深い後悔の念とともに。 Fin. ***** ふう、やっと伏線を張り終えたわ。(と、額の汗を拭う) いままでの短編と中編は全部、伏線がちりばめてあるのでした。 ただ、張った本人もお読みいただいてる方も、昔すぎて忘れたっていう 問題がありますが……(大汗) さてさて、やっとこさ本編ですね。 あ、本編というのは、「もうひとりのきみと過ごした一ヶ月」のことです。 ついてきてくださる方がどれだけいらっしゃるかは謎ですが、 やっぱり創作するのは楽しいものなので。 おヒマなときにでも読んでいただけたら幸いです。 それではまた。お読みいただきありがとうございました。

inserted by FC2 system