腕のなかの幸福

「もうひとりのきみと過ごした一ヶ月」のお話より以前のお話です。 〜このブログでの、勝手な設定〜 ・美馬サマと花純ちゃんは、結婚しています。 ・花純ちゃんは有名な女優になっていて、普段はパリで暮らしています。 大変に甘いので、苦手な方はご注意ください。 それではどうぞ。 ***** 「ただいま」 ドアを開けて声を掛けた美馬は、出迎える気配がないのを不審に思い、首をかしげた。 結婚して初めての、ふたりで迎える大晦日。 成城の美馬邸にも家はあったが、それとは別にマンションを購入し、美馬はここを拠点にしていた。 皇居の緑が見おろせる高層マンションの最上階。 爽快な眺めのワンフロアすべてをふたりの新居に選んだ。 花純は仕事の関係上、普段はパリに住んでいる。年末ぎりぎりになって休暇がとれ、帰国したばかりだった。 持っていたシャンパンのボトルを床に置き、美馬は靴を脱いだ。 灯りがついているから、花純は帰宅しているはずだ。 ボトルを手に廊下を進み、リビングに続くドアを開けようと手を伸ばしたとき、奥から花純が現れた。 「あ……お、おかえりなさい」 慌てた様子を隠そうと眼が泳いでいる。 美馬は眉をひそめてその顔をのぞき込んだ。少し乱れた花純の髪を撫でつけてやる。 「どうした?何かあった?」 「えっ……ううん。何でもない」 何か隠しているのは明白なのだが、全く隠しきれていないのが、花純の可愛いところだ。演技派女優の肩書きも持ちながら、美馬の前ではどうしてもいつものように平静ではいられなくなるらしい。 美馬は騙されたふりをして微笑んだ。 「そう。……おかえりのキスはもらえないの?」 はっと顔をあげた花純に、少し斜めに顔を近づける。 いつもは触れるだけのキスだが、何があるのかと想像すると可笑しくなって、深く口づけた。 空いている手で花純の顎を捕らえ、可憐な唇を開き、舌を忍び込ませる。 ふらついた花純が美馬の肩に手を伸ばした。 ボトルごと花純の腰を支え、逃さないように美馬はゆっくりと甘いキスを味わった。 「……シャンパンの香りがするわ」 桜色の頬をして、花純が言う。 「ああ、帰る前にイツキの仕事場に寄って、ふたりでこれを開けてきたから」 少し減ったシャンパンのボトルを、美馬は軽く持ち上げてみせた。 「なんだ。それじゃイツキも一緒にうちに連れてくればよかったのに」 「年末最後の日なのに?」 「……そうね。彼にだって、予定があるわよね」 いや、どうやら彼は年末最後の日まで仕事をして、誰も待っていない家に帰るだけのようだよ……と、美馬は心の中だけでつぶやいた。 そして、少し寂しくも思う。ふたりきりで過ごしたいと考えているのは自分だけなのか、と。 だがその考えは、ダイニングに足を踏み入れた途端、あらためることになった。 テーブルの中央にキャンドルが置かれ、既に食器が並んでいる。 赤とゴールドを基調にした、洗練されたテーブルコーディネート。 中央には焼かれた七面鳥が鎮座し、ワインクーラーにはボトルが水滴をつけていた。整然と並べられた銀のカトラリーがキャンドルの灯りを反射して煌めいている。 美馬が眼を見開いて振り返ると、花純がにっこり笑った。 「驚いた?……クリスマスは一緒にいられなかったでしょ?だから、代わりに今夜用意してみたの。 今朝あなたが出かけてから、こっそりみんなに来てもらって……がんばったのよ」 “みんな”とは、通いの料理人や掃除を担当しているメイド、それに友人のスタイリストのことだろう。 花純は普段料理をしない。 できないわけではなく、時間がないからだ。 それになにより彼女はパリを拠点にしているため、美馬とふたりで過ごす時間そのものが少なかった。 キッチンのカウンターには慌てて脱いだらしいエプロンが無造作に置かれている。 「驚かせようと思ってたのに、エプロンしたままだったから、慌てちゃって」 照れかくしに少し怒ったように言う花純に、美馬は全ての事情を把握した。 持っていたシャンパンボトルを氷のなかに押し込み、椅子を大きく引き出し、腰掛ける。 悪戯っぽく眼を輝かせ、花純の手をひいて、開いた長い両脚の間に彼女を囲い込んだ。 「あのさ、花純ちゃん。これだけ用意してくれているのに、それでも、オレがイツキを連れてきたほうがよかった?」 花純が眉を跳ね上げる。 「あら、あたしはそんなに心が狭くないわよ。料理はいっぱいつくってあるし、食器を増やせばすむことだもの」 ちっともわかっていない花純に、美馬は椅子にのめり込みそうになる。内心の落胆を押し隠し、もう一押しした。 ―――どうしても、花純の口から言わせたくて。 「今日は年末最後の日で、明後日にはキミはパリに戻って、オレたちはまた離ればなれ、なんだけど」 「……!」 さすがに鈍い花純も、わかった。 みるみるうちに頬を紅潮させ、両手を上げて降参の仕草をする。 美馬のなかにはこういう寂しがりの少年が住んでいて、時折こうやって彼女にだけ、ちらりとその顔を見せる。 そして花純には、そんな美馬がたまらなく―――愛おしかった。 両手で美馬の頬を捕まえる。頭上から、小さな囁きを降らせた。 「……ふたりきりのほうが、いいわ」 真っ赤になって身を翻そうとした花純の手を捕らえ、美馬は細い腰をきつく抱きしめた。 柔らかな胸と、カシミヤセーターの滑らかな感触に頬を寄せ、眼をつぶる。 「幸福」とは、こういうことをいうのだろう。 愛するひとが自分のために料理をつくり、部屋で灯りをつけて待っている。そんなささやかな日常を、長いあいだ美馬は知らなかった。 次々とつきあう相手を変え、めったに家にいない父と、使用人たちに囲まれる日々。 同性からも異性からも憧れの目を向けられ、たくさんの仲間に囲まれながら、ほんとうの自分を誰にも理解してはもらえないと思っていた。 深い孤独が、いつも彼とともにあった。 いくつもの紆余曲折を乗り越え―――いま、腕のなかに幸福がある。 「ありがとう、花純」 「……どういたしまして」 美馬の髪を、細い指がゆっくりと撫でた。 頭を優しく抱えられ、そのてっぺんに唇が降りてくる。 お返しにウエストから素肌に指を忍ばせようとした美馬は、すんでのところで思いとどまった。 このままでは歯止めがきかなくなって、メインディッシュの前にデザートをいただくことになってしまう。 一番美味しいものは最後までとっておくことにして――― 美馬は、ゆっくりと腕の力を抜いた。

inserted by FC2 system