夜の向こうに

まだ全然かいていないのに番外編とは恐縮ですが、 七夕を思ってついつい書いてしまった、「もうひとりのきみと過ごした一ヶ月」より前のお話です。 〜このサイトでの、勝手な設定〜 ・美馬さまと花純ちゃんは結婚しています。 ・美馬さまは東京、花純ちゃんはパリで、ふたりは一時的に離れて生活しています。 ・花純ちゃんは有名な女優になっています。 それではどうぞ。 ***** オフィスの机上に置いている携帯が鳴った。 美馬はとっさに時計を見て―――時刻は夜の11時すぎだった―――頭のなかで7時間をひいた。 パリと東京の時差。 この音を聞いたらそうすることが、なかば癖になってしまっている。 「はい」 「……いま、お仕事中?」 ためらいがちな声は、やはり愛しい彼女だった。 「そろそろ終わるところだから、かまわないよ」 言って、美馬は立ち上がり、窓の外を見た。 高層ビルの最上階に構えるオフィスからは、夜景が一望できる。 眼下に広がる首都高には、テールランプが光の河のようにつらなり、様々な色のビルの明かりとともに輝いていた。 磨き込まれた巨大な窓に映った自分の、仕事中とは到底思えない上機嫌な眼の色に気づいて苦笑する。 時差の関係で、ふたりの連絡手段はメールになることが多く、電話で声を聞けることはめったになかった。 「特に用事っていうわけじゃ、ないんだけど。いまちょっと休憩してて」 電話口の向こうで、花純が歯切れ悪く言った。 「あのね、今日……7日でしょう?ああ、七夕だなって、思い出したの。 で、イレーヌとオルガに七夕のことを説明してたのよ。 そしたら横で聞いてたリンがね……織姫と彦星は恋人じゃなくて夫婦だっていうのよね」 「へえ……」 「あたしはふたりが恋人だとばかり思っていたんだけど!! ……結婚してるのに、一年に一度しか会えないなんて、 かわいそうじゃない?……で、なんとなく……」 「オレのことを思い出したってわけ?」 くすりと笑って、美馬は言った。 「結婚しているのに会えないのは、大事な奥さんが一年もかかるパリでの仕事を引き受けたせいだったと思うけど、オレの記憶違いかな」 「そうだけど!……こんなに会えなくなるなんて、思っていなかったんだもの……」 語尾が消え入るように小さくなる。 お互い多忙の身だ。パリと東京を往復するだけのまとまった時間はなかなかとれず、もう数ヶ月、ふたりは会っていなかった。 「……なんだかすごく……声が、聞きたくなって……電話したの」 美馬は眼を見張った。 花純がパリに行ってから、一度も聞いたことのない言葉だったからだ。 それは彼女が、もともと甘えることが下手だからかもしれないし―――もしかしたらパリ行きは自分で言い出したことだからと、自らを戒めているせいなのかもしれなかった。 「嬉しい台詞だね。いつもそうやって甘えてくれると、もっと嬉しいんだけど」 「……そんなこと……」 「夏には、少し休暇がとれると思う。そうしたら、そっちに行くから」 とびきり甘やかな声で美馬は囁いた。―――その声だけで……愛撫するように。 「会えない間、オレがどれだけ焦れていたか、教えてあげるよ。……一晩中かけて、じっくりと……身体中にね……」 「……っ」 きっと電話口では真っ赤になっているに違いない。 小さく息をのむ声に、美馬は意地っ張りな彼女への溜飲を下げた。 「―――もうっ……まだ撮影は終わってないから……!き、切るわね!!」 慌てて切られた電話の空しい音を聞きながら、美馬はクッと笑った。 顔をあげて目をこらすと、遠くに小さく―――彼女がいま居るところにもある同じかたちをした塔が、輝いている。 美馬は瞳を細めて、この夜の向こうにいる会いたくても会えない女性にしばし想いを馳せた。 秀麗な眉が、せつなく歪む。 わずかに浮かんだ感情を振り払い、デスクに戻ると、美馬は再びラップトップの画面に目を向けた。 Fin.

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