もうひとりのきみと過ごした1ヶ月 第2章<08>

友人への電話はつながらなかった。 美馬は携帯をしまい、手元の写真を改めて見つめた。ふたりの女性が微笑んでいる。花純とその友人、マリオン・ジョレス。 ―――知らないというのは嘘だ。 突然の自殺だった。花純が取り乱し、泣きながら連絡してきたことを昨日のことのように思い出す。 親しくしていた花純にもまったく予想外の出来事だった。日本にいた美馬は、そばにいて力になりたかったものの、仕事が抜けられず結局葬儀には出席できなかった。 マリオンは、美馬の友人と交際中でもあったが―――彼女の死によって友人との関係はこじれ、疎遠になっていた。 なぜなら友人は、花純がマリオンの死に関係していると言い張ったのだ。 友人の名はジェフリー・エセルバルト。 美馬とは学生時代、英国のキングズ・スクールで出会い、いっとき、義理の兄弟でもあった。 父が離婚・再婚を繰り返したため、美馬には元・ハーフブラザー、ハーフシスターが数えきれぬほどいる。日本だけでなく、主にヨーロッパ、アメリカなど、国籍も多彩だ。有力な人脈となった者もいれば、一度も連絡をとりあっていない者もいる。 なかでもジェフとは、マリオンの死まで友好的な関係を築いていたのだが―――。 美馬は再び携帯を取り出した。 マリオンとジェフの写真を添付したメールは、もう届いたはずだ。 「凱?オレだ。調べて欲しいことが増えた。……ああ……もしかしたら、花純の件に関係しているかもしれない……」 ***** 目まぐるしく色の変わるライトの下で、豊満な肉体を晒した女が身体をくねらせている。 待ち合わせに指定されたこのバーは、明らかに移民や不法滞在者の多い、いかがわしい場所だったが、カークはうまく溶け込んでいた。粗野な男達が、ストリップダンサーに卑猥な言葉を浴びせている。はちきれんばかりの谷間を覗かせて給仕している女も黒髪やブルネットが多い。普段のカークであれば目のやり場に困るであろう光景だが、彼の意識は仕事に飛んでいた。 花純をさらったとみられる男について、署のデータベースから判明した情報は多くなかった。 アルバニアの北部、マレシ・エ・マデ県の出身。渡航危険勧告が発令されている地域で、一般人は足を踏み入れることすら危ぶまれる。連中は数年前からフランスに渡り、組織を形成。人身売買を専門とし、あらゆる悪事に手を染めている。組織の証に、メンバーは全員、身体のどこかに蜘蛛のタトゥを入れている―――。 たったこれだけでは、部下を集めて男を捜そうにも、手がかりが少なすぎる。 そしてカークの頭の片隅でずっと引っかかっていることがあった。 それは花純をさらった理由だ。 通常、人身売買のために連中が狙うのは一般の女性だ。旅行客や仕事がなくて困っている女、移民の女などをさらって色好みの金持ちに闇で売りつけるか、薬漬けにし、売春婦にする。 花純のような女優―――それもオスカーを獲るほどの有名な女優をさらうとは思えない。 あらゆる面において、リスクが高すぎるからだ。 誰かが花純を“指名”したとか?―――ありえない。 堂々巡りの考えに自分で呆れ、カークはビールをあおろうとした。 そのとき、顔に影がかかった。 「辛気くさい顔だな。こんな“天国”にいるんだからちょっとは楽しめよ」 ようやく現れた待ち人に、カークは目をやった。 「エルナンド。久しぶりだな。わざわざすまん」 いがらっぽい声にみあげるような巨体。カーク自身もめったに人から見下ろされることはない長身だが、彼は上背に加えて横幅もそれに見合うだけある。分厚い唇に人好きのする笑みを浮かべ、無精ひげにくっきりとした二重の眼。愛嬌のある顔立ちは、典型的なヒスパニックだ。革のジャケットとすりきれたジーンズはブルーカラーの様相だが、彼はICPO―――国際刑事警察機構、通称インターポールの人間だった。 “天国”とはよくいったものだ。有能な捜査官だが、無類の女好きのせいで何度か面倒を起こしている彼らしい。 カークは笑って立ち上がり、肩をたたいた。 東欧、中近東に詳しい彼に、わらをもすがる思いで連絡をとったカークだが、快く時間をとってくれたことに礼を言う。 「他人の金で楽しめるんだ。いいってことよ。……で、何があった?」 単刀直入なのは彼の美点のひとつだ。 カークは小声で、これまでの事情を手早く説明した。 「マレシ・エ・マデ県出身で蜘蛛のタトゥ。そいつはアルバニアでも一番でかい組織だな。女優を狙うとはおかしな話だが……」 ビールを持ってきた女の谷間にチップを差し込み、エルナンドが言う。 「それはオレも疑問に思っている点なんだ。……どこに行けば、やつらに会えるか知りたい」 「たまり場ならいくつか心当たりがあるが……危ない連中だ。動くなら腕利き数人で動くことだ」 あげられた数カ所のバーや通りの名前を、カークはコースターの裏に素早く書き留めた。 「それから……これはオフレコだが、ヤツらは最近、人身売買よりもっと実入りのいい仕事に力を入れているって話だ」 「実入りのいい仕事?」 「ドラッグ―――それも素人が扱うコカインや覚醒剤じゃない、ヘロインの上物だ。 “シュガー”って名で密かに出回ってる。―――そいつの流通ルートをひとりじめしてるって話だ」 「“シュガー”の名前は聞いたことがある。一年くらい前だったか……」 ドラッグにもランクがある。若者が気軽に試すコカインやマリファナに比べ、ヘロインは“薬物の王者”ともいわれる、ドラッグの最高峰に位置するものだ。そのもたらされる快楽の度合いも中毒性も他のドラッグの比ではない。 ドラッグの流通には、いくつもの組織が介在してマージンを得るため、価格が跳ね上がってゆく。 だが流通を一手にするとなれば莫大な利益が手に入る。 「だが、ヘロインのような高価なものだと顧客も限られるだろう?」 「勿論、相手は財界人や著名人、金持ちばかりだ。―――つまり、金はあるうえに極秘にしておきたい連中で、組織にとっても都合がいいってわけだ」 カークの胃がずしりと重たくなった。 「著名人って……女優も含まれるのか……」 「エンターテイメントの世界は上顧客だろうな」 「まさか!花純はドラッグなんてやってない。中毒患者なら見ればすぐわかるだろう?」 花純の診察はシャルルが行ったのだ。あの彼がドラッグの痕跡を見落とすはずがない。 「本人がやってなくても、何かしら関係している可能性はある」 冷静に言ったエルナンドに、カークは黙り込んだ。 ***** 花純の様子を見に来た美馬は、一瞬、彼女がいなくなったのかと思った。 明かりはすべて消したはずなのに、部屋はほの明るく、そしてベッドの中央は平らなまま。近づくと、広いベッドの隅に丸くなって、花純が眠っていた。美馬は椅子を引き寄せてベッドの脇に座り、花純の寝顔を間近にのぞき込んだ。 ぎゅっと眉根が寄せられ、怯えた表情が浮かんでいる。 握りしめた小さな拳を、美馬はてのひらでそっと包み込み、耳元で囁いた。 「大丈夫だ。何も心配いらない。オレがそばにいる。―――大丈夫だ……」 髪を撫でていると、手から力が抜け、花純の緊張が解かれてゆくのが感じられた。 花純は、病院でも毎晩この調子だった。 彼女は何かに怯えている。―――たぶん自覚すらなく。誘拐されそうになったことを花純に打ち明ければ、きっと日本に帰国するのは容易だったろう。そうしなかったのは、花純のこの様子を見ていたからだった。 これ以上、怖がらせたくない。 美馬は帰宅するにあたり、執事を通じて使用人全員に言い含めておいた。花純を追い詰めないよう、いつもの彼女とは違うことを言い出しても、平常どおりにふるまうこと。普段通りの生活に、さりげなく誘導してやること。忠実に働いてくれるひとびとは皆、真剣な顔で頷いてくれた。 背中を撫で、手を握っていると、花純の身体から少しずつ力がぬけてゆくのが感じられた。身じろぎをして、曲げられていた足が伸びる。寝顔がゆるみ、寝返りを打って美馬の手から逃れてゆく。 ―――このまま隣で眠りたい。衝動が美馬の心を突き上げた。 彼女をひとりにしたくはなかった。悪夢にうなされる花純を抱きしめ、守ってやりたい。だがそうすればきっと、朝は花純の悲鳴で起こされることになるのだろう。今の彼女にとっては、自分は“知らない男”なのだ。 美馬はシーツをかけ直し、明かりをそのままにして立ち上がった。

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