もうひとりのきみと過ごした1ヶ月 第3章<04>

美馬はコーヒーを飲み、カップをソーサーに戻し優雅に指を組んだ。 「昨夜カークからの報告を受けて、バラム・レジャという男に関して調べさせた。彼の会社のひとつが数年前、当社のMプラン特許申請を出していたよ。申請は問題なく受理されていたのでクリーンな会社だ。貿易・輸入業や投資会社、小売業、いずれもきちんと申告され納税もしている企業をいくつか所有している」 「クリーン?全ての会社で?」 「いや、いくつかはペーパーカンパニーだったし、非合法な会社はいまのところ三箇所、さらに探らせているところだ」 シャルルが、そばにあったフルーツの大皿からオレンジを一切れ、マリナの皿に乗せてやりながら言った。 「輸入も小売も密輸の隠れ蓑にはよく使われる手だな。海外を飛び回っても怪しまれず、ごまかしがきく。オレのほうでは金の流れを追わせた。彼個人の表の口座は主にパリだ。隠し口座を数箇所、スイス、ルクセンブルク、ケイマン諸島に見つけた。かなりの資産を分散して保有し、投資に回している。不動産、紙の資産等、総額で約7000万ユーロ。あとで詳細を渡す」 シャルルに頷き、美馬は続ける。 「それから、顧問会計士から花純の口座から20万ユーロが引き出されていると報告があった。入金先は不明だそうだ」 カークが目を細めて問う。 「花純に心当たりは?」 「本人には尋ねていないよ。……混乱させたくない」 エリックは、メモも見ずに会話する彼らの、頭上を飛び交う情報の交換に目を白黒させていた。生涯二度とお目にかかれなさそうな、豪華な朝食を思う存分むさぼりたい気持ちと、ノートPCか手帳を取り出したい仕事への使命感とで激しく葛藤していた。隣のガストンからも、同じ動揺が伝わって来る。 アルディ博士とは面識がある。彼は検視官として仕事をしていたし、行き詰まった捜査にアドバイスをくれることもあった。いずれもカークのつてだったが。しかし署内で会ったときの白衣姿と違い、慣れ親しんでいるであろう豪奢なダイニングで、警官の給料の何ヶ月分もしそうな仕立ての良いシャツを着てくつろいだ様子は絵画かグラビアそのもので、朴念仁な自分ですら眼福ものだ。 美馬のことも知っている。直接ではなくテレビや雑誌で。有名な元テニスプレイヤーで、現在は巨大財閥の当主。財力と知力と美貌と鍛え抜かれた身体と全てを兼ね備え、ビジネスマンとなった今も一挙一動を注目され、話題には事欠かないTIME誌の常連。 これまた警官の薄給では永遠にお目にかかれなさそうな、身体にぴったりと合った上質なスーツをまとった姿は、まさに貴公子の呼び名にふさわしい。 そして前に座っている女の子は、ものすごく美味しそうに食事していた。茶色の髪と大きな瞳。ふんわりと柔らかな生地の白いブラウス姿で、一生懸命食事を味わっているその様子は本当に幸せそうで、見ているこちらがほのぼのとした気持ちになる。かわいいなあ、いくつくらいかな……と見ていると、シャルルから突然レーザーのような鋭い視線が飛んできて、エリックは姿勢を正した。 視線が刺さるってほんとなんだと思いつつ、彼女から視線を反らそうと隣のボスを盗み見た。 端正な横顔に、インディアンの族長のように意志の固さと冷静さがみなぎっている。仕事モード。戦闘モードだ。見慣れた顔のはずが、あらためて思い知った。 カークはこの美しい面々に自然に溶け込んでいる。 神々の食卓に人間が混じってしまった。それは俺とガストン。 エリックはため息をつき、降参して、くたびれた鞄から手帳とペンを取り出した。ガストンに目配せすると心得たようにうなずき、彼も手帳を取り出した。 心はひとつだ。 食べるのは諦めてでも、せめて捜査中の事件の話題にはついていかなければ、市警の名折れだった。 ***** 「それで、監視カメラに映っていた、花純をさらったと思われる男はまだ見つからないのか」 「エリック」 カークから報告を促され、手帳にメモを取っていたエリックは居住まいを正した。ひとり手帳に目を落とす屈辱に頬をわずかに染めたが、端的に要領よくまとめる。 「クラブに警察を張り込ませるのは目立ちますので、引き揚げさせました。姿を見かけたら連絡するよう情報屋数人に声をかけていますが、いまのところ現れません。ムラドの居住は20区にあることが判明していますが、令状がないので踏み込めず、こちらは私服警官が交代で見張っている状態です。また、花純さんが発見された地点から半径500メートルに絞り、レジャならびにムラドと関係する物件がないか調べましたが、当たりはありませんでした。サン・ドニのあのあたりは集合住宅ばかりで、空き家や持ち主や住人が不明の物件もかなりあります。あまり手がかりにはならないかと」 ガストンも手帳をにらみつつ、補足する。 「任意同行を求めたところで応じるかどうかあやしいですし、ムラドの経歴はデータベース上は清き一般市民です。身元が判明したのは、はるか昔に駐車禁止で切符を切られていたためで。こちらの握っている証拠が弱いため、泳がせるしかいまのところ手はありません。ただ、あの娼婦の話によるとクラブのオーナーの用心棒か清掃屋―――つまりが殺し屋―――だというわりに、経歴が綺麗すぎるんです」 「あのクラブで会った彼女によると、警察内部につながりがあると言っていた」 カークがシャルルに説明すると、ガストンも頷いた。 「ですので、誰かが意図的に消去した可能性も探っています」 「本人が姿をあらわしたところで、当面は花純に近づかせないようにするしかないのか」 美馬がかみしめるように言った。シャルルも頷く。 「そのようだな。カークの会ったその娼婦だが、無事に保護している。今朝早くにシェルターから報告があった。17歳。ブカレスト、ルーマニア出身。紹介カード所持。だが本人は国には戻る意思がなく、パリで職を斡旋してほしいそうだ」 17歳とは、思った以上に若い。カークは帰国せずと聞いて眉を曇らせた。 「……会いたい家族もないのか。気の毒に」 「だが珍しくはない。ルーマニアでは特に」 シャルルの言葉に、美馬もカークもため息で同意した。 移民問題はヨーロッパ諸国の大きな悩みの種だ。もっとも多いのはイスラム系だが、次に多いのは東欧だった。特にルーマニアではかつての独裁者、チャウシェスクの少子化対策のため、生み出された孤児たちが大きくなり居場所がないまま各国へ流れてくる。フランスはヨーロッパの真ん中に位置し、国境を接する国が多数ある。陸路から海路から、政治の安定しない国を捨て、命からがらやってきて助けを求める人々はひきもきらない。 カークが彼女に渡したあのカードは、シャルルの設立したシェルターへの紹介状だった。カードを持っていれば無条件で助けが得られることになっている。 シャルルはアルディ家当主として移民問題を憂慮し、美馬財閥やドイツのミカエリス家にも協力を得て、財団を設立し、フランスのみならずヨーロッパ全土にこういったシェルターを作っていた。移民を全て保護することなど不可能だが、犠牲になる弱い立場の人々―――女性、子供、高齢の者、そして悪意のある連中に食い物にされ、だまされて辛い立場に置かれている者に、ひとりでも多く手を差し伸べたいという思いからだ。 このまま放っておけば、EU全体をゆるがす事態になる。いや、もはやなっているという危機感を覚える人々とともに、民間レベルとしてはもちろん、政治的にも働きかけ、移民受け入れを表明していた現フランス大統領を支持し、多額の寄付も行っていた。 「美馬、気を悪くしないでほしいんだが―――シャルル、花純からドラッグを使用した痕跡はなかったんだろうか?」 カークがためらいがちに聞いた。 「オレが見た限りではない」 「花純はドラッグどころか、撮影中は酒も敬遠していたからね。たとえ合法のドラッグでも手は出さないと思う。そういうところはかなりストイックだよ」 「では何故こんな連中が関わってくるんだろう。それと20万ユーロが消えたっていうのは?」 「あのう……」 いままで黙っていたマリナが、おずおずと口をはさんだ。 「いまの話で思い出したことがあるんだけど。前に花純と薫と3人でお茶していたときに、話題にしたことがあってね。お金の使い道を隠すにはどうしたらいいかって、花純に聞かれたことがあったの」 「花純に?」 「出金元を隠さなくていいのなら簡単だ、使うだけなら現金で払っちまうのがいちばん手っ取り早いって……その、薫が」 「ヒビキヤ……」 シャルルが呆れた様子で額を押さえ、首を振る。美馬は目をみはった。 「それで、その使い道は?」 「それは聞いてない。ほんとに。この話は……使い道を隠したいって話は誰にも、シャルルにも美馬さんにも言わないって約束だった。女同士の秘密ってこと。だからこのことを話すだけでも友情に背いてるんだけど。いまは非常事態だし……この話をしてたとき、花純は冗談めかして軽い調子で聞いてたけど、なんていうかすごく、疲れてるっていうか……今思えば、精神的に参ってる感じがしたの」 「それはいつごろ?」 「ええっと、庭でお茶してて、薫がコンサートツアーの合間にうちにきたときだったから……夏ごろ」 「夏……」 記憶の糸をたぐりよせる。 花純が突然事前の連絡もなく日本にやってきたのもそのころではなかったか。そしてあのとき、いつになく激しく花純に求められ、何度も愛し合った。 何か様子がおかしいことには気づいていたのに。 ―――そして。 美馬は唇を噛んだ。 「カーク、私的なことだが……花純のクロゼットからこれを見つけた」 美馬がカークに渡したのは、写真だった。真っ黒な胎内に星のように宿る、命の証し。 「シャルルから聞いたんだが、花純は……流産していたんだそうだ。たぶん、この一ヶ月以内に。オレは何も知らされていなかった。子供がいたことも、流産したこともだ。……その写真はクロゼットの箱のなか、布の袋に包まれて、大切に保管されていた」 「そんな」 カークがそっと写真を手に取り、目を伏せた。 美馬の視界に、みるみる青ざめるマリナの姿が映る。その様子に美馬は目を細めた。 「マリナちゃん、きみは知っていた?」 「ううん。いま初めて聞いた。でも美馬さんも知らなかったなんて……」 喘ぐように言っておし黙ったマリナの手を、力づけるようにシャルルがそっと握った。 「凱からは業界のゴシップのうち、信憑性の高いものをまとめて報告をもらったよ。そのなかでこんなものがあった」 美馬は雑誌の切り抜きをテーブルの上に置いた。 「花純が、親友のはずのマリオンに決定していた準主役を奪い、マリオンはそれを苦に自殺した―――というもの。当時かなり騒がれた。オスカーの対立候補が捏造して流したという見方もある。熾烈な争いだからね。賞レースの時期は有力な候補を引きずり降ろそうと根も葉もない噂がさんざん流れるそうだ。だがこれは一見もっともらしく、事実のように思える。花純が役を『奪った』という点、本当に自殺の理由なのかという点を除いてはね」 「だが本人たちにそれを聞くことはできない。花純は覚えていないし、親友は亡くなっている」 シャルルの冷静なまとめに、カークが唸るように言う。 「花純に聞いてみるわけにはいかないのか?」 もっともなので、美馬もうなずいた。―――しかし。 「花純は今朝、ひとりで外に散歩に出てね。慌てて探したんだが、そのときにも少しずつ記憶が戻ってきていると言っていた。現に今朝会った凱のことを覚えていた。母親の真澄さんのことも。だからそのことも選択肢には入れている。だが……」 本当に、思いださせてもいいのか。美馬はまだ迷っていた。 「今朝、花純と公園にいたとき、オレは鋭い殺気みたいなものを感じてね。探させたんだが何も見つからなかった。でも護衛には注意されたよ。守るということは、本人にその自覚がなければ不可能だとね。本人が危険を知り、守られるよう行動を自重しなければどうしても守りきれない。今朝のようにひとりで出歩くような真似はさせてはいけないと。全くその通りだ。……だがオレは花純に、きみは危険な立場だと知らせて、これ以上負担をかけたくない。不安にさせたくないんだ」 沈黙が落ちた。 誰もが、どちらの言い分にもうなずけたからだ。 シャルルが、マリナの手を握ったまま、片手を伸ばして空のグラスを取った。 「花純に起こったことを時系列でまとめると」 言いながら、少しずつグラスのなかに、かごに盛られていた葡萄を一粒ずつ落としてゆく。 「親友との仕事の争奪、彼女の死」 小さなグラスは、すぐに半分が葡萄で埋まった。 「ゴシップは彼女のような仕事にはつきものかもしれないが、親友の死には大きなショックを受けただろう。それから、なにやら秘密にしたいらしい支払い。……流産」 グラスは山盛りになり、数粒がグラスにはいりきらずにこぼれた。 「そして、何者か―――どうやらドラッグにかかわる連中にさらわれ、逃げだしたところを車にはねられた」 シャルルがスプーンの柄で突くと、グラスは布のクロスの上にころがって中身をこぼした。 「花純は強い女性だ。だがいくら彼女でも、これではあまりにも負荷が大きいし、多すぎる。……記憶が混乱するのも無理はない」 シャルルは空になったグラスを、片手でそっと元に戻した。 「花純が元に戻るためには助けが必要だ」 ピクリと揺れたマリナのちいさな拳を、手を滑らせて上から包み込む。わかっているというように。 「友人として、医者として、アルディ家当主として、オレにできることは何でもする。脳医学の権威に知り合いがいるから、あたってみよう。それから自殺したっていう親友の彼女が気になる。自殺なら検死解剖されているはずだ。記録を調べてみる。そしてこの男のことも徹底的に洗う。ここはオレの国だ。パリの病巣の源だというなら、排除する」 カークもうなずいた。 「男の捜査に進展があればすぐに知らせる。ドラッグ関連ももっと掘り下げよう。麻薬捜査課にも声をかけるよ」 「……わかった」 美馬は静かに言った。 だがその顔はこわばり、ころがった葡萄とその横にたたずむグラスを見つめていた。

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