もうひとりのきみと過ごした1ヶ月 第3章<03>

その邸宅は、16区の閑静な住宅街のなかでもひときわ大きい区画を占めていた。 ゆるやかな坂をのぼると現れる、鉄製の優美な柵。美術館かホテルだろうかといぶかしみつつ歩いて行くと、何ブロック歩いても途切れず、どこまで続くのだろうと思わせる。それほど長く張り巡らされ、森を思わせる木々の向こうに、壮麗な屋敷が見え隠れしている。 精緻なレリーフが施された壁面の、数カ所に設けられた黒い門扉はどれも固く閉ざされていた。歴史を感じさせる石造りの建物とは裏腹に、数十台の監視カメラと赤外線センサー、各種アラーム、さらには衛星による空からの監視という、最新かつ最高のセキュリティで厳重に守られていた。 私的な状況報告のため、カークの運転する車にエリックとガストンは同乗し、門をくぐった。本当にパリ市内かと目を疑うほどの広い車寄せに、警察支給の地味なセダンはあまりにも不釣合いだった。うやうやしくドアを開けられ、優雅なカーブを描く階段をのぼる。 数人のメイドに出迎えられ、重厚な大広間をすぎ、執事に案内されたダイニングは、機能的かつモダンな雰囲気でまとめられていた。 その邸宅の主人は、背中のなかほどまである白金髪をゆるい三つ編みにして洒落た銀色の飾り紐でひとつに束ね、左肩に垂らしていた。世界を支配するような威厳さえ漂わせて、長いテーブルの最も上座についている。 ミケランジェロやラファエロが見れば歓喜のむせび絵筆を握りそうな、彫りの深い完璧な美貌。だが、そのブルーグレイの瞳には憂慮の陰りがあった。 右手には彼の妻であるマリナと、反対側には美馬がすでに腰を下ろしている。 テーブルの上には新鮮なフルーツ、数種類のバゲットやクロワッサンが天国のような香りを放ち、みずみずしいサラダとチーズ、ポットのコーヒーとフルーツジュースが並んでいる。3人の黒いワンピースを着たメイドが影のように控え、皿とグラス、銀のカトラリーはきらきらと輝き、信じられないほどまぶしい。 エリックとガストンは自分たちがいつも馴染んでいる、簡素な箱入りのオートミールや添加物満載の袋入りクロワッサンを思い、あまりの違いにそろって息を飲んだ。 「待たせてすまない。はじめようか」 青ざめて立ちすくむ部下二人の横で、カークが平然と美馬の隣に腰を下ろした。 ***** 「それで?その彼女とはどうなったの?」 「どうもこうも……連絡したときにはもう、怒って電話にでてくれなくってさ。それっきり」 「タイミングが大事なんじゃない。知り合ったらすぐ連絡しなくちゃ。それが熱意ってものでしょ」 「そうはいってもさ。帰ってすぐに呼び出されて寒い中張り込みしてたんだよ。そのまますっかり……えっと、二週間?は、忘れてた」 「それは……怒るわね」 同じころ、凱と花純も朝食をとりながら和やかな会話を楽しんでいた。話題は主に凱のニューヨークでの暮らしぶりだった。真澄のもとでの仕事はなかなか多忙で、彼女ができないと嘆く凱を励ましつつ、花純はスープを少しずつ飲んでいる。自分のこととなると口数の少ない彼女に、凱はなるべく明るい話題を提供しようと気づかっていた。 花純は執事とメイドによって給仕されるのを眺めながら、頭の片隅で記憶をたどっていた。花を飾った広いテーブル。真っ白なテーブルクロス。快い音を立てる上質な食器。 あまりにも自分の生活と違いすぎる。だが慣れ親しんだ気もする。そう―――昔、こんな暮らしをしていた。 いつ? あれは母の真澄が再婚して、美馬家に引っ越したとき。 めまいがしてきて、花純は両手で目を押さえた。記憶がよみがえってくる。 美馬貴司―――彼と私が……義理の姉弟だったことを。 「気分悪い?大丈夫?」 「ううん。ちょっとまた思い出して。美馬のこと。義理の姉弟だったのよね。彼にもう聞いてたけど……あのころの食卓もこんな感じだった。広くて、豪華で、給仕してくれる人がいて」 「ああ……そうだったね。美馬のことは、それだけ?」 花純はさっと頬を染めた。 「彼とわたしが結婚してるっていうのは聞いたわ。なんていうかもう……」 「なに?」 「だってあの彼よ?手の届かないひとってかんじがする。テレビとか、新聞でみるとか、住む世界が違うかんじ」 両手で顔をこすって狼狽する姿に、凱は苦笑する。 「そばにいると落ち着かなくて。どきどきする。でもいなくなると寂しいの。話をすると謝りたくなるし、……苦しくなるし」 「謝るって何を?」 「……わからない」 つぶやく花純に、凱は苦笑した。 「それを言うならきみだって手の届かないひとなんだけどな?美人のオスカー女優さん。相変わらずきみは記憶がなくなっても美馬のことが大好きなんだね」 「ええ?そんなこと言ってない!」 「言ってるよ。好きで好きでたまらないって。……すごく妬ける」 「え?……美馬が好きなの?」 「はは!そうかもね。でも美馬はさっき、きみのことを頼むっていいつつ、オレのことを刺し殺しそうな目で見ていったけど。傷つくなあ」 全く気にしていない様子で凱はカップを持ち上げ、空なのに気づいた。心得た執事が滑らかにそばに寄ってくる。じっとそばに控えていた彼を見上げ、花純は言った。 「あの、もしよければあなたにも話を聞きたいし、すわってもらえない?……なんだかその、落ち着かなくて」 花純が空席を指し示すと、執事は凱をうかがうように視線を投げた。 凱が肩をすくめると、そのカップにコーヒーを注いでから、几帳面に姿勢を正して腰を下ろした。心得たようにメイドが彼の分の食器をひとそろい持ってくる。 スティーブンはやわらかく微笑み、優しい瞳で花純を見た。 「……実は、以前にも同じようにおっしゃられたことがありました」 「そうなの?」 「初めてこちらで食事をされたとき、給仕など不要だとおっしゃって。執事が奥様と同じテーブルにつくのはおかしいと何度も申し上げたのですが。聞き入れていただけず」 「そうよ。わたしは庶民なの。食事は自分で用意できるわ。だいたいこんな朝早くからそんなスーツで、疲れない?」 「そのことも同じようにおっしゃいました。そして私はこう答えました。私にとってスーツはなじみのある服装なのです。いわば好きでこの格好なのですよ。一番落ち着くのです」 「この屋敷の“奥様“とは気が合いそう。って自分なんだから当然かもしれないけど」 メイドが彼のカップにコーヒーを注ぐのを見て、花純はバゲットのかごを勧めたが、スティーブンは品よく手をあげやんわりと断った。同席での許容範囲は飲み物までらしい。 「……あなたはどのくらいここに?」 「おふたりがご結婚されてから、ずっとこの館で勤めさせていただいております。こちらに来る前は、英国で執事を長らくつとめさせていただいたあと、パリのホテルでコンシェルジュをしておりました。まもなく定年というころ―――こちらの旦那様に出会いました。どなたか大切な方のお衣装を朝までに急いで用意してほしいと、夜中にご要望をいただきましてね。ツテをたどってご用意しましたところ、いたく気に入っていただき、引退するならうちで働かないかとお誘いいただいたのです」 「ふうん……」 美馬の大切な人―――。花純の胸がずきりと痛んだ。 彼ならどんな美女でもよりどりみどりだろう。ホテルで―――夜、だれかと。衣装を用意するってどういうシチュエーションなの? ……決まってる。 もやもやとして、うずく痛みに、花純はわずかに顔を歪めた。 「少しお顔色がよくなりましたね。フルーツはいかがです?ヨーグルトかそれともパンかなにか」 「そうだよ。もう少し何か食べて、頭痛がするなら鎮痛剤を飲んだらどうだい?」 凱も重ねて言ったが、花純は首を振った。 「ううん。十分よ。ありがとう」 力なく微笑んで、黙々とスープをすする花純に、スティーブンは内心首を傾げた。 以前、この話をしたときには、奥様は赤くなったり青くなったりとずいぶん忙しかったのだが。同じ人物でありながらリアクションがこうも変わるとは。 彼にとって花純の様子は特に変わりがなかった。ただ昔に戻って、同じことをなぞっているような不思議な感覚で。 しかしこの小さな違いに、やはり奥様は本当に、記憶を失っていると思い知らされた気がしたのだった。

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